今日の授業

は、「マスターズ・オブ・シネマ」。土曜日なのに三週連続で講義に出てるけど今週は是枝裕和氏。「誰も知らない」の監督。でもまだ「誰も知らない」は観たことなくて、今日の上映会にも出ようとしてたんだけど起きたら昼で間に合いません。ほんとはホリホリ来ないし今日は授業休む気まんまんでした。でもAからのメールで行くことに。この講義はほんと自分のためになる。やっぱり、自分を持ってる偉人たちの話は面白い。
で、是枝監督の印象。第一印象、ずいぶん閉じてる人だな、って感じはした。あと話してる間にリズムとかとってて自分のワールドを持ってて、先々週の行定勲とは対照的だった。自分は元気なのに「元気出せ」って言われるんです、ってこの発言が是枝監督の人間性を一番理解しやすい表現だろう。感情の表出の少なさ、か。こういう人って俺にはすごい魅力的なんです。なんでだろうね、感覚的に惹かれるのかな。常に死を無意識なところで意識してる。生きてる限り1秒1秒死に向かって生きていかなくちゃいけないんだけど、そういうところって普通は意識できないところ。感性豊かな人はこういう普通の人が意識しないところを意識できるんだろうね。
寺山修司村上龍も、世の中は嘘で成り立ってる、自分とは違う自分を他人に作らさせられてるって言ってる。例えば誰かに会うとき、今日は人に会うからちょっと良い服を着ていこう、この時点で自分を作ってることになる。これは良い悪いじゃなくて、人間は社会的なサルで、生きてる限りこの自分を作り上げて生きていくことはしょうがないことなんだろうね。人間誰しも芝居をしてるってことなんだよ。森山未來が「世界の中心だ愛を叫ぶ」に「朔太郎」役を演じてる時、そこには未來か朔かどっちがいるんだろう。未來が朔になりきることなんてあり得ない話で、未來と朔が混ざり合う、それが芝居で役者はいかにうまく混ざり合うかなんだろう。っと思った。
演劇と映画の違いで、演劇に出てくる役者は同士の演技は会場にいる全員に聞かせなくちゃいけないから、この時点でリアルな会話ではなくなる。でも映画は普通の距離感でいつも俺たちが会話しているように演じればそれで良い。これって演劇から映画に出る役者にとってはほんとに難しいことなんだって。演劇の役者は大勢の人に観られることを常に意識してるから、映画に出ても反射的に声を大きくしてして自分を伝えようとするけど、これは映画には不必要な表現方法。これに監督としてすごい違和感を覚える。って言ってた。俺は日常でもやたら無理してる時って声が大きくなるの。無理にテンション上げてるからかな。だからこの映画と演劇の話が妙に納得できたって言うか、よくわからないけど共感できたんだよ。
講義聞いて思ったことを書きすぎて意味分からないものになってるけど、まあしょうがない。1年後みたら「なんだこれ?」って感じだろうけど、そういうのもいいかもね。